日吉、今から海に行こう


ミーティングが終わって真っ直ぐ家に帰ろうとした俺を捕まえて『そうだ、京都に行こう』という某CMの軽いノリで彼女−テニス部のマネージャーで3年生の先輩は俺の腕を引っ張って、俺の予定していた進行方向を強引に変える。ちょっと待って下さい、そう軽く抵抗したものの先輩である彼女に後輩の俺の言葉は届かず、彼女はどうせ家帰ってもやることないんでしょうと軽く笑うだけで待ってはくれない。俺は彼女にとっては暇人に見えるのだろうか、確かに今日家帰ってもすることはないが、それは帰りながら考える予定だったわけで。考えさせてくれてもいいじゃないかと思ったが、言ってもまた届かないだろうと諦めて何も言わず、大人しく彼女の言う通りに従い、滅多に使わない電車にかれこれ40分揺られながら、海にやってきたというわけだ


「わー、海だ!きれー!」


海に着いた途端、彼女は子供のような表情をして目の前に広がる海へキラキラと目を輝かせる。そんな彼女と海は少し似ていた。雲一つない空に一人で頑張っている太陽の光に照らされた海はその光を乱反射させた眩しい白を青の上に芸術家のように乗せる。旅行会社のパンフレットに乗っているような南の島の海とは残念ながらかけ離れている海だけれど、まだ中途半端な俺はこちらの方が親近感が沸いた。少し濁った色の方が落ち着く。ザザン、と聞こえる季節外れの波の音はとても心地よく耳を刺激した


「日吉、早く」


心地よい刺激に浸っていたらいつの間にか彼女は海に近づいていた。振り返って俺の名前を呼ぶ。その声が波の音よりも心地良く感じたのは重症だろうか。手招きする方へ俺はゆっくりと足を動かす。柔らかい砂浜は固い地面で歩き慣れている俺にとっては少し新鮮だったが、靴に砂が入るのがどうも気持ち悪い。それでも彼女の方へと真っ直ぐ向かう


「うわっ、冷た!日吉、手凍りそう」
「当たり前ですよ。夏じゃないんですから」


濡れないようにできるだけ海にさらに近づいた彼女がそっと手を伸ばし、その指の先が海の水に触れた瞬間顔を顰める。それを横で見ていた俺はありきたりに答えた。まだ完全に冬が終わりきっていないこの時期からしたら夏はまだまだ先だ。昼間だからか快晴だからか、または風がそれほど冷たくないからか今日はまだいつもに比べたら温かいけれども夏からしたら寒いことには違いない

彼女は制服のスカートのポケットに手を突っ込んで、白いハンカチを取り出して先ほど水に触れた指先を拭く。それから何を思ったかは分からないが、にやりと性質の悪い笑みを浮かべて俺の顔へと手を伸ばす。その冷たくて湿った指が触れた瞬間、今度は俺が顔を顰めた


「何するんですか」


そう言って彼女の手を掴むと、彼女はしたり顔で「だって日吉が当たり前のことを言うから」と言う。意味が分からない理由だけど考えるのがめんどくさいので、そうですかとだけ返事をした。そうですよ、と言う彼女に分かりましたとまた返せば、本当に?と彼女はくすくす笑う。先ほどの自分の言葉の意味がよく分からないことを自覚してるのだろうか。...まあ、どっちでもいいけれど。俺は彼女の手を離す


「ねえ、日吉」
「何ですか?」
「何であたしが今日日吉をここに連れてきたのか分かる?」


彼女はくるりと方向転換をして、波が絶対やってこない場所へ腰を下ろした。俺が振り返って見れば、彼女は何故だか楽しそうに笑ってそう俺に問い掛ける。彼女が何故俺を季節外れの海へ連れてきたのか、そんなの分かるわけがない


「...分かりません」


彼女が誘えば他のテニス部の人だって絶対頷くだろうに。何故か同級生を誘わず、わざわざ後輩の俺を選んだのかなんて俺に分かるはずもない。期待という言葉なんて捨ててきたはずだった


「日吉とデートしたかったからだよ」


真っ直ぐに俺を射る彼女の目にその言葉が加われば、最早立派な凶器だ。俺と彼女はこれがデートだと言える間柄ではないことは分かっているけど、それでもその言葉を意識してしまう自分がいた。胸が高鳴り、捨ててきた期待が蘇る。それと同時に全否定していた気持ちが今になって裏返ってしまったではないか


「...そうですか」


俺はゆっくりと彼女から視線を反らして、彼女に背を向ける。とてもじゃないけれど今の俺の顔を彼女に見せることなんてできるわけがない。再び俺の目の前に姿を現す海は何も聞いていないよと言わんばかりに先ほどと同じようにきらきらと輝いている。ザザン、と波の音までプレゼントしてくれた

......もしかして

それは引き寄せる波が俺の足元まで及び、じんわりと俺の靴を濡らしていくように。だんだん海が青くなっていくように静かにもう一度俺の心臓を侵食していくのは諦めていた感情。都合のいいときに限って現れるから厄介だ。何度も何度もそうじゃないって自分に言い聞かせてきたのも水の泡ではないか

ザザン

彼女は喋らない。俺も喋らない。そんな2人に無頓着な波の音だけが一定のリズムになる。そんな一定のリズムに乗せて流れるのは俺のデタラメなメロディだ。楽譜なんて意味がない、アドリブな心臓の高鳴りはもしかして彼女に聞こえてるのではないかと思うくらい大きく、恥ずかしいくらい滑稽だった


「......あ」


俺の背中を風が押すと同時に、彼女の小さな声が耳に入る。より一層風が強まったかと思うと、俺の横を何か白いものが過ぎり、何だと思ってよく見るとひらりと宙を舞う白いものは彼女のハンカチだった。彼女のハンカチは海に引き寄せられるかのように落ちていき、ふわりと海を傷つけないように波に乗る。白いハンカチがすぐに水に浸されていくのが目に見えた

俺は何も考えず、制服で真っ直ぐ海の中にずかずかと入っていった。冷たい。当たり前だ、とさっき自分が言った言葉を思い出す。季節外れの海は痛いほど冷たく、俺の行く手を波で邪魔をする。ザブン、ザブン。俺の膝辺りまで水に浸った辺りで、彼女のハンカチを捕まえる。水を吸って重たくなっていたハンカチを絞りながら、俺はくるりと振り向いた

彼女と目が合う

その時の彼女の瞳は印象的だった。まるで俺の心を見透かしているような綺麗な瞳、そして俺を受け入れてくれるような気がして。自惚れを振り払うべく視線を下に反らし、さらに強くハンカチを絞る。水気をなくしたハンカチを広げて、皺を伸ばす。そしてハンカチを丁寧にたたみ終わったときには俺は彼女の前へと足を動かし終わった後だった。ズボンの裾は砂まみれで靴の中に水が入って気持ち悪い。それでも俺を見上げる彼女があまりにも幼くて...愛しいと思ってしまうじゃないか。蘇る感情に柔らかな痛みを感じながら、俺は彼女にハンカチを差し出した


「今度はもう飛ばさないで下さいね」


彼女はこくりと小さく頷いて手を伸ばし、俺からハンカチを受け取った。それから俯いて、ぎゅっとそのハンカチを握り締める彼女の隣に俺は黙って腰を下ろす。そして自分の手が濡れていることを忘れて、砂浜に手をついた。俺が触れた箇所だけ砂は泥と化し、俺の手に纏わりつく。この感じは幼稚園の時以来なのではないだろうか。あの頃はこの泥の感触が心地良く思えていたのに、今となっては何だか気持ちが悪い。あの頃の俺はそう思うようになることに気づいていなかった。もちろん俺が今こんな顔で女の隣に座っていることも知らない

ザザン

俺の手に冷たいものがそっと触れる。何だと思って見てみると、俺の手に重ねる手があった。その手はもちろん俺のじゃなく彼女のだ。...彼女はこんなに小さくて綺麗な手をしていたのだと俺は衝撃を受ける。そんな彼女の綺麗な手が汚れるのはあまりいい気がしない。今触らない方がいいですよ、手が汚れますから。そう言おうと思って隣の彼女を見た

−−−−−でも言えなかった


先輩...」


俺を真っ直ぐ見る彼女の瞳が綺麗すぎて、俺は言葉を失う。瞬きすら忘れてた。ゆっくりと彼女の顔が俺に近づいてくる。ドクン、ドクン、血が駆け巡り、鼓動を打つ。まるでスローモーションを見てるみたいだ。こんなに彼女の顔を間近で見たことなんてない。彼女の睫毛の長さを初めて知り、それで縁取られている綺麗な瞳が徐々に閉じられる。そして視界が真っ暗になった時、俺は息もできない深海に引きずり込まれた感覚を覚えた







透き通る青に飲まれる






( やっぱり蘇る気持ちは偽れない。これは間違いなく恋だ )