誰もいない放課後の教室の静けさが好きだ。外からは部活をやっている人の声が聞こえてくるし、図書室のようなまるで切り取られた世界のように静かというわけではないけれど、ほんの数時間前まで生徒達の笑い声で賑やかだったとは思えないようなこのしんとした空間の。授業中では止まって見えた時計の針も今は少しずつ平常心を取り戻しているようで。教卓の上に置かれている花瓶の中の花は西日に照らされて、温かみを持つ色へと変わる。伸びゆくのは影。本来の姿よりも細長く儚げな
「......今日の欠席者はゼロ、っと」
カチカチカチ、三回鳴らしたシャーペンの音もいつもより大きく聞こえるのは当然で、今日日直だったあたしが埋めなければならない日誌の見開き一ページも実際よりもオレンジがかっている。時計を見やればもうこんな時間、と言っても特にこれから用事もない。家に帰ってもやることと言えば、最近買った新作のゲームだけだ。筆を急がせる理由もないのでゆっくりと。今日リーディングは何やったっけなとのんびりと振り返る。教科書を出せばすぐに分かるけれどわざわざ出すのはめんどくさい、こういう自分の性格は結構横着だと思う。でも下校時間まであと1時間半くらいもあるし、それまでには必ず終わるだろう。焦る気が全くないあたしは無意識にカチカチカチとシャーペンを鳴らす。何か考えている時にシャーペンを持っていると無意識にシャーペンの芯を無駄に出しすぎてしまうクセがあたしにはある。そして出しすぎてしまった芯をどこかにぶつけて折ってしまうことが多々あり、つい今も何気なしにシャーペンの芯を日誌に当ててしまったもんだから0.5mmしかない細いシャー芯はその少しの衝撃で呆気なく折れてしまった。日誌にもシャー芯が掠った跡が残る。横着なわりにはそういうのを残しても気にならないという性格ではないので、その跡を一昨日買ったばかりの消しゴムで擦った。新品だから角があるので消しやすい。消しカスを机から払ってしまえば、誰もここにシャー芯が擦った跡があったなんて気づくまい。そう思いながら、改めてシャーペンを鳴らしてシャー芯を新たに出す。カチカチカチ、あたしはその音と一緒にかすかに足音を聞き取った
コツ、コツ
その音はだんだん大きく聞こえてきて近くなってきている。けれども別に特に気にすることでもない。誰か忘れ物でも取りに来たのだろうか、なんてぼんやりと考えながら先ほど思い出したリーディングの内容を日誌に書く。折れたばかりだからか上手く書きづらい気もしたがすぐに違和感は無くなった。次は古文だ。確か今日はロリコン物語...じゃなくて源氏物語をやったんだった。古文はあまり得意ではないけれど源氏物語はすごく面白い、と感じるあたしは当然昼ドラも楽しませてもらっているというのは本当にどうでもいい話であって、その次に化学の授業内容を書こうとしたときにそういえば足音が聞こえなくなっていることに気づく。そうかと思いきや、閉めていた教室のドアがいきなり開いた
「...あれ、じゃん。まだいたのか、お前」
勢いよく開けたからか跳ね返って中途半端に開いたドアをそのままにして教室に入ってきたのはクラスメイトの宍戸亮だ。テニス部である彼は制服ではなくジャージを身に纏っている。まさか彼がやってくるとは考えてもいなくて正直驚いたあたしと同じように彼はまさかあたしがこの教室にいるとは思わなかったと言いたげな表情だ
「うん、まだ日誌書いてなくて」
「そっか」
あたしがそう言えば宍戸亮は納得したように返事しつつ、自分の席へと真っ直ぐに向かう。油断してしまえば自然と目線が彼の方にいっちゃうので、意識して日誌を見つめることに専念するあたしは今結構動揺しているのかもしれない。あたしと彼はクラスメイトといっても特に仲良く会話するほどの間柄ではなく、今この場に会話がないのは不思議なことではないけれど、先ほどの心地よい沈黙が今ではこんなにも息苦しいものだなんて。さっきからゴソゴソ何してるんだろう、と気になって仕方がないのはどうして?
「の字って綺麗なんだな」
その答えをあたしは知っているからあたしの座っている席の前の席のイスがひかれたときは心が飛び跳ねるくらい驚いた。どうしたんだろうと思って前を見たら、彼がそこに座っていて。一瞬真っ直ぐな瞳と合ってしまったような気がしたけれど、彼の方から反らされる。一瞬だけだというのにこんなにも胸が千切れそうになったのに加えてさらりと言われた言葉にどうしようもなく嬉しくなる。彼の声がいつになく近く、彼との距離が今までこんなに小さかったことはない
「別に、普通だけど」
「これで普通だったら俺の字はどうなるんだよ」
貸して、とあたしの指に挟まれていたシャーペンを抜き取り、彼はそれを使って日誌の上の空白部に文字を書いていく。そういえば彼の字を見るのは初めてかもしれないと思いながら黙ってそれを見ているあたしの目に映ったのは中学生にしては大人びた楷書のような字で書かれた『』というあたしの名前。あたしの名前をちゃんと知ってくれてたんだと思うとすごく嬉しくなって、彼の字で書かれた自分の名前がとても愛しい
「な、下手だろ?」
小さく痛む胸に知らぬ素振りをしたあたしにシャーペンを返しながら、彼はあたしにそう問うが、彼が自分で思っているほど汚い字ではないと思う。そんなことないよ、と否定すれば彼は小さく笑った。あ、また1つ手に入れた。彼が笑えば、あたしは泣きそうになる。胸の奥が熱くなって、たまらなく落ち着かない。まだ彼の温度が残ってる気がするシャーペンを握る
「......、ってさ」
何、と少し顔を上げたときまた彼と目が合った。今度は一瞬なんかじゃなくて数秒。たった数秒なのにもっと長く感じるのはあまりにも彼の目がひたむきだから。このままでは色々とヤバイと思い、今度はあたしから目を反らした。彼の言葉の続きを待つ。大気がかすかに震えてる、みたい
「彼氏、いる?」
「......いないよ、全然」
いきなりこんな質問でびっくりしたけれど、なるべく平然を装って否定した。彼はそっかとだけ呟く。視線を動かして見た彼は何故かほっとしたような表情に見えて。でも気のせいかもしれない。すぐに彼はあたしから顔を背ける。その横顔はオレンジがかって、何だかいつもの彼と違うような気がした。その違いは言葉で表せるものではなくて、心が感じ取ったもの。不確かなものだけれど信じられる、曖昧で重みのあるこの気持ち、初めてだった。抱いたことが、大切に思えたことが。だからこそあたしも気になる
「宍戸君こそ、彼女...いるんでしょ?」
その横顔に言うと、彼はまさか聞き返されるとは思わなかったといった表情であたしを見つめる。そう口にした時、何故だかあたしはショックを受けた。彼に彼女がいたって別に不思議ではないのに。どうしてこんなにも悲しくなるものなのと尋ねたら答えは1つ。たったの数行が書けないほど、
「...いるわけねーだろ」
だから否定してくれてとても、とても嬉しかった。あたしの感情の鍵は彼が無意識に握っている。彼の言葉一つでこんなにも舞い上がることができるなんてと思いながら、次の彼の言葉一つでこんなにもどん底の世界を味わうなんてとも思った
「好きな奴ならいるけどな」
彼に彼女がいても当然と思うのだから、好きな人がいても当然なのに先ほどのショックがまた蘇る。彼の顔を見ることができなかった。そっか、と呟く
「...宍戸君が好きな人なんだからすごく素敵な人なんだろうね」
それからそう言うだけで精一杯だった。努力家で向上心がある素敵な彼には素敵な人がお似合いで、彼もそういう人を選ぶと思う。あたしなんかより、もっと素敵な人を。それは当たり前なことなのにかなしい。泣きそうなのを堪えて彼に見えないように小さく日誌に笑いかけたら、何故かさらに泣きそうになった
「ああ、素敵だよ」
そうに決まってるよね。うん...頑張って、宍戸君。上手くいくように応援してるから
「俺が好きな奴はさ...」
なんて嘘でも言えないよ
最悪だなあたしと思いながら何も言えずに黙ったまま、ただ彼が立ち上がったことは知っていた。ガラリと音をたてて椅子をきちんと直す彼の手を見て、そういえば練習はどうしてたのかな、と疑問を持つ。そうか、今から彼は練習に戻ろうとしているのかもしれない。名残惜しさを感じると共に今本当に涙が込み上げてくるのを我慢しているので、早く行って欲しいと思う。あともう少しの我慢だと自分に言い聞かせて、彼の言葉の続きを待った
「字が綺麗なんだよ、俺と違って」
自然と顔を上げたら、彼と視線が交わった。あたしを見下ろす彼の目は先ほどと同じように真っ直ぐで...少し顔が赤い気がする。あたしは彼の言葉の意味を考えながら、ずっと彼を見ていたがしばらくして彼が不意に顔を反らした。それから、じゃあなと一言だけ言い残して、足早に教室から出て行く。足音からどうやら廊下を走っていってしまったみたいだ。ドアは開けっ放し。遠ざかる足音と共にあたしが好きな静けさがまた戻ってくる。それは彼があたしの目の前にいたという二つのうちの一つの証拠で。もう一つの証拠はあたしの心がこんなにも震えていることだった
...あれ?
先ほどまで遠ざかっていた足音がまた大きくなってきた。近づいてくる。開けっ放しのドアからまた彼の姿を見たときに、あたしはこんなにも彼が愛しくて仕方が無いんだなと思った
「なあ、もうちょっとゆっくり日誌書いてくれよ!...今日、一緒に帰ろうぜ」
初めて大切にしたいと思った恋だった.
貴方が好きすぎて泣きそうになるの
素敵な企画に参加させていただきましてありがとうございました!
空丘樹里
氷帝三年R誕生祭3様へ
TITLE BY rewrite様
青春...!って感じのお話が書きたかったのですよ。とにかく。宍戸先輩はカッコいいんです(真顔)
20081128 空丘樹里
( 「う、うん!わ、わかった!」「お、おう!じゃあまた校門でな!」 )